2010年04月03日

無限のリヴァイアス総評3

そして最後に来るのがイクミ独裁政権と呼ばれるイクミの政権である。その特徴はこれまで散々既述していると言えるかもしれない。次の既述の文を再び持ってくる事に意味があるだろう。

私の考えでは最善の統治のためには、正義に基づき自由を尊重するような法が必要であり、それに基づく管理やそれに基づく暴力行使のみが許容される。ブルー政権は正義に基づく意志もなく、自由を尊重するような意志もなかった。イクミはブルー政権のこの問題点を理解し克服しつつ、一定の管理や暴力は必要と認める事で、主要人物の中では最も進んだ政治思想に到達した人物だと言える。その思想はチームブルーとツヴァイの両極端な政治思想を止揚する事で生まれたものであり、イクミ自身は「馬鹿が馬鹿なりに必死で考えた方法」と謙遜しているが、比較的にはかなりの妥当性を持ったものである。艦内で知能は最も高いと思われるヘイガーがイクミを全面的に支持し最善でユートピアだと言っている事からも、イクミの決断と方法が馬鹿の方法ではない事は明らかだろう。

私の考えをより簡単に言えば、教育問題において管理教育か人権派が唱えるような自由主義的で個人主義的な教育どちらか善いのかと言えば、私の考えではその極端な二つの中間が最善なのである。だがそれは単に中間なのではなく、真ん中やや左寄りである。つまり人権や自由主義やは必要であり、それに基づく事は必要であると考える。ただそれが過剰化すると問題なのである。逆の方向から見ても、一定の管理や法や制限は必要に決まっている。その意味では学校に一切の管理や校則がなくていいなどという事にはなるはずがない。だが全てのあらゆる管理、どんな厳しい管理も許されるのかというとそれは違う。では過剰でない管理、不道徳でない管理を判断する際の基準にはどういった基準を使えばいいのか。それは正義とか権利、権利とか自由主義とかになるのである。両極端を回避するには両方をとらねばならない。極めて当然の発想である。

あらゆるものの管理や過剰な管理は、正義に基づき正義を基準に認めるべき自由は認め、禁止すべきものを禁止するような管理に改善される。ひたすらな自由放任、個人の思うがままという過剰な自由主義や個人主義は、正義に基づき正義を基準に認めるべき自由だけが認められ、正義に基づく法の下で正義に基づく制限を受けた節度ある自由主義に改善される。これが管理教育と自由教育の止揚の結果生まれる、正義に適った管理、自由な秩序、自由主義的管理教育である。

私のこの思想、統治思想ないし政治思想ないし教育思想が、作中ではイクミのそれと見事に対応している。だから私はイクミをやたらと持ち上げているのである。

無政府は絶対に許容されない。だがブルーらのようなあまりに抑圧的で野蛮を助長しさえするような、いやそれ自体として野蛮であるような全体主義的統治も許容できない。ブルーらがもたらした一定の秩序・安定を保ちつつ、しかし無政府的にも「じゆうなちつじょ」にもならないような統治の方法はないのか……イクミはそのように苦悩した末に、ヘイガーがユートピア的と評価するような統治思想に辿り着いたのである。それは作中や作外での評判の割りには、かなりの程度、単純な発想とも言える。

どれくらいに単純であるか。イクミのしている事はなんら、恐ろしく不道徳な独裁や圧政とは言い難い。もしこれが悪しき独裁なら現在の大半の国家がしている事も悪しき独裁である。(実際国家をそれ自体必要悪とか、いずれは廃絶されるべきものとする過激な政治思想も存在する)イクミの統治はイクミの要求している事は以下の言明に集約される。

「過ちを犯すな!もめるな!争うな!なじるな!傷つけるな!普通でいろ!」

無論、厳密性・明確性という観点から見れば、この命令には曖昧な点もあり、厳密には無問題ではない。ただそれとは独立に作中屈指の名言ではあるだろう。

イクミの思想の趣旨は基本的には暴力などの明瞭な犯罪、悪意でもって他人を傷つけるような言動を禁止する事にある。実際には寝坊が罰されたりもしていたが、イクミ個人の考えの中では保守的道徳は殆ど求められておらず、関心の9割は先に挙げた明瞭な犯罪行為、明瞭な暴力行為、あるいは争い全般の防止にあると考えていいだろう。

実際イクミは他の時には「今後一切の暴力行為を禁止する!」「もしそれが破られた場合、俺は実力行使に出る!」といった事を述べている。少なくともここで禁止されているのは「暴力行為」だけなのである。リヴァイアス内ではこのような明瞭な暴力行為さえもが何の躊躇いもなく行われ、蔓延しきっていた。学校と同じである。暴力ほど明瞭な悪はないにも拘わらず、その明瞭な悪が堂々と行われており、十分に取り締まられていない。この現代の法治国家で先進国である日本でも、このような事態が全国各所の学校で起きている。私の学校にも暴力は蔓延っていた。明らかな犯罪が子供の手によって日々行われていた。だがその多くは何故か殆ど取り締まられる事がなかった。犯罪の被害者が救われる事はなく、校内に警察が入ってくるような事も一度たりともなかったのである。

学校は実はしばしば無法地帯と化しており、不当に事実上の治外法権を持っている。学校的と形容されるリヴァイアスも同様であり、だからこそ学校と同じ蔓延する暴力や蔓延する争い、蔓延するナジり、蔓延する嫌がらせ、蔓延する不良…といった問題が発生する。リヴァイアスは学校的であるが故に学校と全く同じ問題を抱える。私が些か乱暴にリヴァイアスとは学校である、と言うのはこの事を意味しての事だ。

独裁とか狂気とか称されがちなイクミがやった事はこんな最低限の人としての道徳、法すらも守る事ができず、最も明瞭な種類の悪をすら堂々と犯す悪人たち、犯罪者たちに「ただ20日間だけ大人しくする事」そして「ただ暴力を振るわない事」それを要求し、そしてそれを破るなら国家や警察が犯罪者に対するのと同じように対応する…と言った、それだけの事なのである。頭の良いヘイガーがこの行動を最善と称したのも当然な程にイクミがやった事は当然に必要な事であり、むしろやっていないそれまでがおかしい、というような行為なのである。

暴力の蔓延するリヴァイアスに暴力を禁止する法を設け、その法を強制するためヴァイタル・ガーダーという兵器を利用して暴力を独占した。警察的存在としてガーディアンズという組織を設立した。イクミがした事は無政府状態・自然状態にあったリヴァイアスに、擬似的な最小国家を成立させた事に等しい。それが最小であるのは、そこで禁止されている事が「暴力」という極めて最小限最低限の事であるからだ。実際には他にも色々と制限があった(恐らくその大半はヘイガーの差し金もしくは独断かと思われる)ようだが、少なくともブルー政権の時よりは遥かに制限が緩く、その後のイクミの発言などを見ていても必要以上の締め付けなどは全然望んでいない事が明らかであった。イクミの考える法が比較的最小的である事は明らかだろう。

イクミ政権はその風紀概念が最小規模である点でブルー政権や保守的右翼的な管理、全体主義とは一線を画している。それは本質的に自由主義的であり、多くの自由を認める秩序なのである。その中で唯一認めがたいものとして暴力を置き、暴力を徹底的に取り締まっている。私がイクミ政権、イクミの統治を大変結構だと評価するのはこの事による。逆に言えばイクミ政権に批判すべき余地ができるとすれば、このような在り方をイクミ政権が逸脱した場合である。

イクミを信奉し補佐するヘイガーは結果的に(いや結果以外でも)イクミの足を引っ張っていたと感じる。あくまで善意や正義感に基づき、様々な躊躇いを秘めながら行為していたイクミと違い、ヘイガーにはやはり一定の問題ある思考や冷酷で残酷な思考、功利主義的に過ぎる思考、ファシスト的な思考が内在していた。密かに独断でイクミ政権にこのような自分の考えに基づく政策を付加した事で、結果的にヘイガーは色々な問題を生み出した。イクミ政権を道徳的に不純なものにしてしまったと言ってもいい。

例えば暴力の禁止に比べると、イクミ政権下で、ヘイガーの提案で実行された能力別のクラス分けの是非は自明ではない。私はここで答えを提示する気はない。主人公らはこれが自明的に悪いと決めつけているが私は一定の合理性もあると思う。だがこれが本当にイクミなどが意図するように、犯罪防止に役立つかという点で、判断しにくい所がある。加えてヘイガーの恣意的な分類のせいでこの政策は完全に不純で腐ったものとなってしまった。単なる住み分けならまだ合理性があったものを、まず能力に基づかない不適切な分類をヘイガーが恣意的に行った。この時点でもうアウト。本来の効果は見込めない。さらに加えてヘイガーが独断でEクラスの電気を落とすという、残酷極まりない事をイクミに秘密で行った。これによりこのクラス分けには言い訳のできない不道徳性・非人道性さえ付加されてしまった。イクミは後でこの事を知って、すぐに電気をつけさせているので、こんな事を望んでいないのは明らかである。だがイクミを信奉しイクミ政権をユートピアとするヘイガーはこれを結果的に妨害し、イクミのユートピアを汚してしまっているのである。いわば人道的独裁、道徳的独裁とでも言うべきイクミ政権を単なる不道徳な独裁に堕落されてしまうような思考をヘイガーは混ぜ込んでしまっている。

ヘイガーについて言えば、ヘイガーは論理的で合理的である事がその特徴とされているが、どう見ても彼はそれに留まっていない。そもそも論理的である事自体は中立的な特性であって、何らかの政治思想や価値判断を必然的に導出するとは言えない。価値判断の際には絶対に何らかの価値判断のための思想、倫理思想が必要になり、それが関与してくる。ヘイガーはただ論理的なのではなく、功利主義的で全体主義的であると形容せねばならないだろう。より簡単に言えば「多数のためなら全体のためなら、如何なる犠牲も厭わない」とか「目的のためなら手段は汚くていい」とかそのような思考、これが価値判断の際にヘイガーの中では働いているように思う。彼は単に論理的なのではないのである。

実際の学校は何故かしばしば無政府的である。イジメという名の校内暴力が全国的に何年間も蔓延し続けている事からもそれは明らかである。そしてリヴァイアスとは極めて学校的な空間なのであった。そしてそれは同時にリヴァイアスは無政府的である事を意味する。この無政府状態や蔓延する暴力を解決するためには、何らかの政治的な対策、何らかの統治行為が必要になる。リヴァイアスでは様々な対策・統治行為が実験的に行われた。擬似的な政権と呼べるものが作中では転々とした。イクミらの苦悩はイジメという校内暴力がいつまでたっても学校からなくならない事についての苦悩と考えても的外れではない。リヴァイアス内の泥沼状態、悪夢のような有り様は、そのまま学校の泥沼状態、学校の悲惨な有り様である。イクミは未だに暴力を振るう人間に制裁を加えた際、謝る相手に「そんな事を言ってもお前らは信用できないんだっ!すぐ裏切るんだお前らは!なんでだ!お前らは!」と殴る事をやめない。ここには悪人はどこまで行っても悪人であり、いくらその場で脅してやめさせても内面において悪人の全員が改心する事などはありえないという諦念がある。どれだけこれは悪いと言っても、常にどこかで暴力を振るうような下衆が存在するという現実を見据えた諦念・絶望、そして怒りがここには見える。本作で描かれる全ては現実にあるものである。影の薄い主人公はヒロインに向かって「これは現実なんだ!」と繰り返し言い聞かせた。現実を生きる我々は同じようにこの悪夢のような現実を受け止めなければいけないし、秩序を保つため苦悩した登場人物達のように、この現実をより善く改善し、より善い法、より善い政治、より善い秩序のために悩み努力していかなければならない。


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無限のリヴァイアス総評2

リヴァイアスとは学校である。あるいは少なくとも学校よりさらに酷い学校、子供共同体である。リヴァイアス内では数々のイジメが確認されている。それは時にリンチであり、追い剥ぎであり、レイプですらある。無論それらはイジメというよりは明瞭な犯罪である。ちなみに私は「学校内のある犯罪行為」をイジメと呼んでいる。…と言うより、単に私はそれを校内犯罪としか呼んでいないし、そうとしか呼びたくないのだが世間が勝手にそれをイジメという別名で呼んでいるというのが正しい。だが暴行などを伴なうイジメは明瞭に犯罪であり、それをわざわざイジメと呼ぶ事にさほどの意味があるのか、好ましい意味があるのか私は疑問である。例えば校内暴力の犯人を「犯罪者」とか「加害者」と呼ぶのと「いじめっ子」と呼ぶのでは、その響きの深刻さに著しい差異を感じる。犯罪と言えないイジメも存在するのかもしれないが、そうでない場合は全て単に校内犯罪と呼ぶのが妥当ではないかと私は考えている。

…で、話が少し脱線したがリヴァイアス内では明らかな犯罪行為が蔓延しているのであり、イクミなどの統治側が頭を悩ますのもこの問題なのである。如何に艦内から暴力をなくすか、如何に艦内から犯罪を減らすか、それなのである。

少し強引に話を持っていけばリヴァイアスっていうのは「校内犯罪をどうするか」みたいな話なのだ。今のは少し強引すぎてここまでマトモだったのが一気にトンデモ論評になった感もあるかもしれないが、とりあえずはこういった捉え方で話を進めたい。

より正確にするため、リヴァイアスでの最大の問題は「艦内の秩序をどうするか」であると考えよう。(この把握が偏っているなら単に「私が本作で一番注目していたテーマは」という事で理解してくれて構わない。)そしてこのリヴァイアスという艦は学校的であるため、艦内秩序の問題は校内風紀の問題とも理解できるのである。そしてそれは子供ばかりの共同体で如何に秩序を保つか、如何に子供に道徳的に振舞わせるかという問題を含む。

チームブルーによる政権はこの問題を過剰なまでの暴力、過剰なまでの管理、過剰なまでの抑圧、そして過剰な全体主義によって解決しようとした。実際それは表面上は成功して安定した秩序を保っているように見えた。しかしそれは過剰である故に多くの問題を伴っていた。しかもそこで取り締まられた悪は、明瞭な暴力行為などに留まらず、それを取り締まるのが妥当とは言い難い事も厳しく取り締まられた。締め付けが強すぎ、規制対象が多すぎ、自由がなさすぎたのである。厳しすぎる法や抑圧的すぎる管理に少しでも異を唱えるだけで食事を抜きにされたり、暴力を加えられるような、そういう過剰な全体主義、反自由主義的統治だったのである。

それは統治される側・大多数の一般人の側で、権力者・統治側に対する強い反感・不満を蓄積させていった。同じ統治側と言えない事もないツヴァイなどの間でさえ反感を持たれており、結果的にツヴァイのヘイガーなどが目論んだ革命に大多数の大衆が乗った事で、ブルー政権は革命的に打倒されてしまう。強権的抑圧的な全体主義の敗北と言える。

学校における教育問題、学校における統治問題で言えば、この全体主義の敗北はいわゆる管理教育、かなり厳しく締め付ける種類の管理教育(と言って管理教育と呼ばれるものは大体かなり厳しく締め付けるタイプである)の敗北だとも言える。実際ブルーらが敷いた過剰な管理体制は全体主義体制的であると同時に、管理教育を表明しているような学校の有り様とも酷似していた。そもそも管理教育を採用している学校の有り様自体が多くの場合に軍隊的であったり全体主義的であったり独裁体制的であったりする。ここではこれら全てが同種のもの、同種の統治思想、同種の政治思想に基づくものとしてまとめられていい。

つまりリヴァイアスのテーマの一つは学校統治の問題であり、校内風紀の問題なのだが、ブルー政権に象徴される管理教育的手法は、その過剰な全体主義が子供の反感、さらには統治側の数名の反感を買う事で失敗し、また守るべき風紀の範囲を広く考えた事で、過度に抑圧的になり多くの自由を圧殺し、それ故に全体主義的になってしまい。それ故に革命という最大の不支持を呼び起こしてしまったのである。

繰り返しになるが自由主義者の私の視点から見てブルーの問題は、暴力を行使する事で秩序を保とうとした事それ自体にはない。問題はブルーら自身がどこまでも野蛮で、正義の事などなんら考えてはおらず、自身らが犯罪者集団だった事によっている。(実際チームブルーというのは不良を集めたアウトローグループである)いわば強い犯罪者集団、強い悪人による自分達に都合のいい不道徳な全体主義体制、あるいは正義に基づかない僭主政治なのである。だからその法は様々な欠陥を備えており、その法は道徳性を十分に備えていなかった。それは正義を目的とした法というよりは単に抑圧だけを目的としたような法だったのである。

またもう少し具体的な問題としてはやはり、取り締まり禁止する事柄が多すぎた事、風紀概念の範囲が広すぎた事だろう。自由の居場所が尽く奪われ、しかも権力者だけがそれを味わうような酷い秩序がそこにはあった。打倒されるのも当然だったと言える。

私の考えでは最善の統治のためには、正義に基づき自由を尊重するような法が必要であり、それに基づく管理やそれに基づく暴力行使のみが許容される。ブルー政権は正義に基づく意志もなく、自由を尊重するような意志もなかった。イクミはブルー政権のこの問題点を理解し克服しつつ、一定の管理や暴力は必要と認める事で、主要人物の中では最も進んだ政治思想に到達した人物だと言える。その思想はチームブルーとツヴァイの両極端な政治思想を止揚する事で生まれたものであり、イクミ自身は「馬鹿が馬鹿なりに必死で考えた方法」と謙遜しているが、比較的にはかなりの妥当性を持ったものである。艦内で知能は最も高いと思われるヘイガーがイクミを全面的に支持し最善でユートピアだと言っている事からも、イクミの決断と方法が馬鹿の方法ではない事は明らかだろう。

第二次ツヴァイ政権は影が薄く無印象に等しい。実際この政権はリーダーの指導力のなさもあって無為に近かった。リーダーであるユイリィが最初に提案したポイント制廃止なども即行で他のメンバーに否定される事でボツ。その後もユイリィは意見を出さないか、出しても却下され、殆ど全てヘイガーの意見が通り、実質ヘイガーの傀儡(かいらい)政権となる。「貴方がリーダーをやればいいじゃない」と言うユイリィにヘイガーは「自分は参謀タイプなので、リーダーには向いてない。リーダーには人望のある人間がならなければならない」と答える。ヘイガーはユイリィの人望などだけを形式的に利用したわけだ。

だがヘイガーが裏で操ったからこの政権が成功していたかと言うとやはりイマイチ。そもそもユイリィにあまりにやる気がなさすぎたのだ。ユイリィは後に「私はなりたくてなったわけじゃない」と言ってさっさと艦長を辞任してしまう。注目すべきはこのユイリィ政権が「民主的」な政権だったという事である。まさしくユイリィは民主的に艦長に選ばれたのだ。本人が何を言う間もなく問答無用で、多数決によってユイリィは新艦長に祭り立てられた。結果、やる気のない艦長の下でグダグダな統治が行われ、治安も悪化し、イクミをキレさせ、次に来るイクミ独裁政権を呼び起こす事になる。

こうして見るとやはり本作の政治的な流れはどこまでも「華麗」である。来るべくして次の政権が到来しており、各政権は潰れるべくして潰れている。政権の変化の順番もなかなか納得出来る繋がりを持っているのである。やはり大変優れた作品である。

多数決としての民主的決定は必ずしも最良の指導者を選抜する事はなく、最善の統治を成立させるわけでもない。民主的なユイリィ政権の挫折はこういった民主主義の問題を示していると解釈する事ができる。

それだけではなく、ブルー政権打倒後「じゆうなちつじょ」というタイトルの回がある事からも明らかな通り、ここでは何らの縛りも管理も存在しない自由な秩序の欠陥、いわば過剰な自由主義の問題も示されている事が分かる。本作のストーリーがその問題を暴き出す統治方法は多岐に渡るのである。それは右翼的な管理方法にも左翼的な放任主義(教育における児童中心主義・自然主義)にも矛先を向けている。


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無限のリヴァイアス総評1

というわけで、欝アニメとかとして紹介されがちな「無限のリヴァイアス」を全話観た。結論から言うと大変素晴らしかった。恐らく本ブログでは観ていない人が大半かと思う。ネタバレを嫌う人がいるなら、これまでの関連文章は全てネタバレ前提で書かれており、本文章も同様なので注意されたい。既に読んでしまったらならご愁傷さまである。気にしない人だけ読んで頂きたい。

一応未見で尚且つアニメなんて見る気はないからこれ読むよ、という人のために簡単な粗筋を引用しておく。

2137年、大規模な太陽フレアによって出現した高密度のプラズマ雲が黄道面を境に太陽系の南半分を覆いつくし、地球も南半球が壊滅、17億もの人命が失われる被害を受ける。このフレアは「ゲドゥルト・フェノメーン」、プラズマ雲は「ゲドゥルトの海」と名付けられた。2225年、地球の衛星軌道にあった航宙士養成所リーベ・デルタは何者かの襲撃によって制御不能になり、ゲドゥルトの海へ突入してしまう。しかしその時、リーベ・デルタ内部に隠されていた外洋型航宙可潜艦「黒のリヴァイアス」が起動した。教官たちは全員殉職し、リヴァイアスに避難できたのは少年少女ばかり487人。彼らはなぜか自分たちを救助してくれるはずの軌道保安庁から攻撃を受け、戸惑い、混乱しつつもこれと戦い、そして更には密閉された極限状態にある艦内では、艦の指揮権や物資の配給を巡り少年少女同士が陰惨な争いを繰り広げながら、火星圏から土星圏、天王星圏へと当てのない逃避行を続けていく。

まぁ少し極端に簡略化すれば

487人の少年少女がリヴァイアスという宇宙船で漂流してしまい、外の大人などからは救助されず何故か攻撃を受け、行く当てもなく宇宙をさまよい、船内ではドロドロとした人間関係や政治問題、暴力が渦巻く。

といった話。「SF版蠅の王」とも言われ、これも分かりやすい説明となるだろう。

一応ロボットによる戦闘などもあるのだが私としてはこれは本作にとってかなり二次的三次的な要素と見え、正直なくても成立するのではないかという程度のもの。いや現実的にはないと攻撃されて終了なので、なくていいなんて事はないのだが、ただ戦闘などは無印象の危険すらある程に薄いのだ。この点、同監督のギアスなどとは違う点かもしれない。ギアスも本作と同じ程に心理描写や政治や社会問題を描いていたが、同時にロボットの格好良さや、戦闘の面白さも描く事に成功していた。だが本作のロボットは形すらあまり印象に残らず、色も地味で、戦闘も大体があっけない。本作にとっての主軸はどこまでも
人間の心理描写、暴力描写、群像劇にあるのだ。

さて以上は前置き。以上のような調子で平凡な解説に徹するのもいいが、それは他サイトなどに任せる事にしよう。

本作は一つの「漂流もの」である。それは本作が「蝿の王」をモチーフにしているとされる事からも、実際に漂流しているストーリーからも明らかだろう。私はそもそも小説をあまり読まないので漂流ものにはそう詳しくはないが、それはしばしば子供を漂流させる所に特徴があるようにも思う。(当然例外はあろう。特に実録的な漂流記は大人がいるのが当然である)それは蝿の王でも同様、有名な十五少年漂流記でも同様、漂流教室という漫画でも同様(ドラマでは頼れる大人がいたが、どちらにせよ学校という子供が多数の空間が舞台になる)である。何故か、と考察する力は私にはないが、単純に考えて大人だと簡単に切り抜けすぎる(と断じるのも厳密には問題があるだろうが)危険があり、話として面白くならないからかもしれない。未成熟な子供の方が技術的にも心理的にも、漂流という危機的状況では「えらい事」になるのだ。

よく比較されるように十五少年漂流記のような漂流ものはどちらかと言えば性善説的な人間観に立脚しており、人間の連帯・団結について楽観的である。だからえらい事になっても数々の困難を子供達が努力し団結し乗り越えて行く、そういう様を描く事で読者を楽しませる。逆に蝿の王のような性悪説的人間観に立脚した漂流ものは、ドロドロした人間関係や渦巻く暴力や残忍な精神を現実として徹底的に描く事で人間の闇や獣性や残忍さ、悪意をはっきりと我々につきつけ、それを作品の魅力とするのである。

本作は極端に後者の性悪説に立脚しているとはあまり言えない。だが明るいと言う事は絶対に不可能であるし、状況は悪化するばかり、問題は発生するばかり、どう見てもドロドロとした闇の部分を強く描いている事は明らかだろう。間違っても団結して苦難を乗り越えていくぜというアニメではないのである。

従って本作には悪意が渦巻いており、暴力が渦巻いており、苦悩が不和が問題が常にはびこっている。ネーヤという謎多きキャラクターは艦内の人々の心理を代弁するため、状況が悪化している時には悲痛な台詞を沢山話す。これが増々観ている側を陰鬱な気分にさせる。…そして本作の登場人物達はこういった状態を終始脱したがっている。どうにかして脱したいともがいたり、考えたり、あるいは途方にくれたりしている。もがいて何か対策を打ってもその多くは失敗する。空回りしたり理解を得られなかったり、革命が起きたり、優秀だった人間が無能化したり、独裁者が出てきたり、散々な事にばかりなるのだ。

今「革命」と言ったのは別に私が比喩的に勝手に述べている事ではない。この革命という表現が作中実際にチームブルーという集団による「政権」を打ち倒す際に出てくるのである。さすがに「政権」という表現は作中は出てこないが、本作の視聴者、評者の側ではこの政権という表現が多用されている。実際本作は明らかに「秩序」の問題、「法」の問題、あるいは「統治」「政府」「治安維持」の問題を扱っており、その方法や思想をめぐって指導者が転々とするのである。人々はこの指導者が転々とする様を政権が転々とする様と理解するのだが、これは強ち間違いではない。明らかに各指導者がやっている事、やろうとしている事は一種の「政治」であり、彼らは政治的指導者、彼らが降ろされるのは時に革命という政治的暴動、そしてそこでは政権が転々と変わるような現象が起きているのである。

然るに本作の隠れ(?)テーマは「政治」に他ならないと私は考えている。無限のリヴァイアス、これは政治的な作品なのである。

加えて本作が政治的である事とかぶる指摘として本作の舞台・環境が無政府的である事が挙げられる。さらに加えて三つ目の特徴としてリヴァイアスは学校的である事、その舞台は学校的空間である事が挙げられる。

本作が政治的であるのは、リヴァイアス船内では常に犯罪などの問題が発生し、ブリッジの人達(本作のメインメンバーと言っていい)はこれらの問題に対策する必要を迫られる。これらの問題は政治的問題であり、これに対策する事は政治的行為であり統治行為であるからだ。

次に無政府的であるのは言うまでもなく実際にリヴァイアスが無政府状態にあるからである。ブリッジの人達、ツヴァイなどは統治者的であり、その行為が統治的だとは言っても彼らはやはり私人であり、厳密な意味での政府ではない。勿論まさか国家ではない。やっている事や、やる必要を迫られている事が如何に国家のそれと同じだったとしても、彼らは国家ではないし、リヴァイアスは国家ではないし、そこに政府や法はないに等しいのである。だからこそリヴァイアスには殆ど終始、深刻な暴力やその他の犯罪が蔓延している。暴力行使を辞さなかったブルー政権や終盤のイクミ政権を除いて、統治側はまともに暴力を使う事を躊躇った(あるいは出来なかった)のでこれらの問題に十分対応する事が出来ず、艦内はまさに地獄絵図の無政府状態にあった。そしてブルーやイクミが暴力を行使する事で治安を維持した際も結局本質的には無政府状態である事には変わりがない。単に強い私人が私的に暴力を行使する事で別の私的暴力を抑えた、というだけなのである。リヴァイアスには正式の公的機関が存在しておらず、どうあっても無政府状態を脱する事はできない。ただとは言え擬似的な社会状態、擬似的な政府を構築する事は可能であり、それは無駄な事ではない。この状況下ではそれ以外の事が不可能な以上は、擬似政府で擬似社会状態を形成するのが比較的功利的に―ヘイガーが言うように―最善である。

最後にリヴァイアスが学校的であるのは何故か。言うまでもなくそもそも漂流した艦内メンバー全員が元々学校に所属していたメンバーそのままだからだ。リヴァイアスには子供しか乗っていない。それを考えるだけでもリヴァイアスが必然的に学校的空間と化すのは自明だろう。子供だけの空間で、子供だけで共生する。これは学校的な事であり、ややもするとそれ以上にマズイ空間である。(学校は子供「だけ」ではないし教師という大人による統治行為が存在しているため)その他、印象的なレベルでも、リヴァイアス内部で起きている人間間の不和・問題は極めて学校的なものだという事を思う。つまりそこで起きているのは学校で起きるような諸々の事と極めて酷似しているわけだ。共通点はやはり子供が大多数の共同体で多種多様な子供が共存している事だろう。

多種多様な異なる人間同士が共存せざるを得ない場所では、法がなければ殆ど必然的に酷い対立が発生する。(ホッブズの万人に対する万人の闘争状態)無政府状態=自然状態を仮定する社会契約論者が自然状態を乗り越えるべきものとして、社会契約の必要と国家の必要を説くのはそのためである。無政府的なリヴァイアスには本来、政府が、少なくとも擬似的な政府とそれによる統治、法が必要なのである。

リヴァイアスは学校的かつ無政府的である→リヴァイアスには政治が必要である

という流れでリヴァイアスの学校性・無政府性・政治性は説明できる。

そしてここには子供しかいないので、そこで行われる統治、政治、提案される法は不完全で甘いものになりがちであり、従って失敗しやすく、実際に失敗しまくってしまう。それがリヴァイアス艦内をどんどんと泥沼化させていき、地獄絵図のような状態を発生させ、それを我々につきつけてくるわけである。


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2010年04月01日

無限のリヴァイアスを半分見ての感想

昨日リヴァイアスを一気に半分(12話)まで観た。大変面白い。欝アニメとかSF版蠅の王だと説明されるだけあり相応の内容なのだ。エヴァと同じく一応90年代のアニメだったと思うが、やはりアニメも映画も時代により大分雰囲気が違う。アニメでは絵柄や色やその他、書く人や作り手の違いとはまた別の違いもある気がする。映画も人間の顔は当時流行りの髪型などは除くとして変わるわけがないのに不思議と雰囲気、匂いに差異があるのだ。(勿論映像技術やが大きな要因とも考えられる)例えば60年代とか70年代辺りの映画は殆ど一目でそれと分かる。少なくともこれが1990年代後半以降の映画ではないだろうという事は一目で分かる。まぁ要するに、一昔前の作品の雰囲気っていいねぇという事だ。

蠅の王と言うだけあって本作は人間の善な部分と悪な部分のうち、圧倒的に後者を描く率が高い。圧倒的というのは過言があるが、常にあらゆる描写や人間に一定の危うさ、現実味のある危うさがあり、根っからの100%善人みたいな人物はあまり見当たらない。強いて言うならルクスンやかなり小さな子供二人程度が一切の悪意を感じさせないところがあるが、彼らに人間味がないかというとそれはない。特にルクスンは地位(これは後に剥奪される)とプライドばかりが高く、無能であるため、周りから大変嫌われており、本人は真面目なのだが全てが空回りした挙句、後に憎悪の対象となり追い剥ぎにあったり色々しながら料理当番や便所掃除や子守り役を熱心にこなして一人でトイレにも行けない子供とペアでなんとかやり過ごして行く。(元艦長)なんとも人間味がある。私にとって本作で最も魅力的なのは彼である。

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