倫理学には規範倫理学とメタ倫理学が存在する。私がよくやっているようなのは基本的には前者にあたる。
何が正義か、どのような行為が道徳的なのか、奴隷制度は不正か、死刑は不正か
…といった道徳の内容を具体的に語るものが規範倫理学であるとされる。対してメタ倫理学はどうも分かりにくい説明が多いのだが私の理解では
具体的な道徳の内容ではなく、道徳とはどのようなものか、道徳に従うとはどのような事かといった
なんかよく分からん微妙な事を扱うものである…と自分で書いててもイマイチよく分からないが
ウィキペディアを見ても以下のようにあるだけである。
メタ倫理学 (metaethics) とは倫理学の一分野であり、「善」とは何か、「倫理」とは何か、という問題を扱う。規範の実質的な内容について論じる規範倫理学と異なり、メタ倫理学においては、そもそもある規範を受け入れるというのはどういうことか、ということについての概念的分析、道徳心理学的分析、形而上学的分析などを行う。
これはこれで分かりやすいし、ちゃんとした説明なのだが、分かりにくいのは
実質的な善の内容を論じる規範倫理学も、善とは何かを論じるメタ倫理学も同じじゃないのか、と思う余地がある点だろうか。
ウィキペディアの一行目には「「善」とは何か、「倫理」とは何か、という問題を扱う。」とあるが
善とは何か、倫理とは何かを考える事と善や倫理の実質的内容を考える事はどう違うのか分かりにくい。
分かりにくいのだがまぁその後の説明である「概念的分析、道徳心理学的分析、形而上学的分析」というのが
分かりやすくメタ倫理学の性質や目的を示しているという事でひとまず理解しよう。
これはこれで素人には分かりにくいところがあるがまぁとにかく今から論じるような事がメタ倫理学な話題なのである。
メタ倫理学においては倫理について複雑な立場、主には四つの立場が複雑に絡み合い対立する事になる。(ウィキペディアでは六つ)
まず実在論と非実在論。次に内在主義と外在主義である。ウィキペディアではこれに認知主義と非認知主義の対立が加わる。
しかし永井均は認知主義と非認知主義の対立はそのまま実在論と非実在論の対立と同じなので、という理由で四つに絞っている。
私もこの方が分かりやすいので四つの絡み合いで論じたいと思う。
簡単に説明しよう。
実在論とは倫理や道徳や正義が客観的に真理として実在しているとする立場。道徳的判断は客観的にその是非・真偽を決める事が出来るとする。
非実在論はこの逆で倫理や道徳や正義に客観性はなく、そんなものが真理として実在しているなんて事もないとする。
内在主義は倫理や道徳や正義はそれ自体として人をそれに動機付ける要素を内在するとする立場。
外在主義は逆に倫理や道徳や正義はそれ自体としては人をそれに動機付けたりはしないとする立場。
分かっただろうか。そこまで難解な話ではないかと思われる。
善悪について真理があると言えば実在論者であり、ンなもんねーよと言えば非実在論者。
次に何が善であるかを知れば人は必ず善を行うと考えるなら内在主義。何が善であるか知ってもやるとは限らんだろと思うなら外在主義である。
実在論・非実在論の対立と内在主義・外在主義の対立は別グループに属しているので
とれる立場は実在・内在、実在・外在、非実在・内在・非実在・外在の四種となる。
ちなみに私の立場はどれだと思うだろうか。
私は普段から普遍主義を唱え、正義などないという相対主義に抗い
普遍的正義が真理として存在しているとして、それを探求したり論じたりしている。
この時点で私は明らかに「実在論者」に当たるように思われる。
ただし実は厳密には私はこの実在・非実在という論点は割とどうでもいいと感じている。
詳論は避けるが何故かというと、非実在論は必ずしも私の嫌悪する相対主義に直結するわけではなく
「単にそれは予め実在するのではなく人間により創造されるのだ」という立場も含むからである。
これなら私は同意が不可能なわけではない。ただ基本的には私は実在論者であるという事にしておこう。
次に内在主義か外在主義だが私としてはこれは後者一択である。一体何がどうなると内在主義を選択できるのかは私には分からない。
もし内在主義が正しいなら、何が正しいかさえ判明すれば、如何なる場合にもその違反者、悪人や犯罪者は発生しえない事になる。
人を殺すのが悪であり、殺さないのが善であるなら、人殺しは一人も存在しなくなるはずである。
そのように主張しているのが内在主義だ。人は何が正しいかをすれば必ずその正しい事をする、というのが内在主義なのだから。
どう見てもこれは無茶を言っている。従って、私の立場は実在・外在である。実在論的外在主義とも言える。
ついでに言えば私は認知主義か非認知主義で言えば前者の認知主義に属し、またその中でもムーアが批判した自然主義に属する。
自然主義とは何か自然の事実から倫理を導出するような立場の事だ。例えばミルやベンサムなどの功利主義者は誰もが快楽を求めるという事から
快楽を善と定義した。アリストテレスは同じ感じで幸福を善とした。私も善を自然的に定めるが功利主義のように快楽を善とするわけでもなく
アリストテレスやその他様々な論者のように幸福が善であるとするわけでもない。私が何を善であるとするかは私が何主義者であるかを考えれば分かるだろう。
内在主義の主張には無理がありすぎるので論じるまでもないという気がしてしまい、内在・外在という論点には魅力を感じない。
そのうち積極的に論じたいと思うのはやはり実在・非実在の対立だろうか。
また実在論の内部にも様々な立場があり、対立する。例えば先に挙げた自然主義、そしてその批判理論であるムーアなどの直観主義、
一般世間でも流通している主観主義が含まれる。非実在論には情緒主義、普遍的指令主義、投影主義、規範表現主義なんかが含まれるそうだ。
実在論的な三つの立場についてはある程度説明できるが後者の諸々の立場については勉強不足でよく分からないものが多い。
例えば情緒主義と主観主義の差異も愚かな頭では理解に苦しむ。普遍的指令主義はぼちぼち分かりやすいとして
残りの投影主義、規範表現主義はぶっちゃけほぼ初耳である。永井均の教科書などには名前すら出ていない。
非実在論の立場についてはウィキペディアをそのまま引用しておく事にする。
情緒主義
情緒主義(emotivism、情動主義とも訳される)は道徳判断とは感情の表現である、あるいはそうした表現を通して相手の感情に訴えかけるための道具であると考える立場である。非認知主義を打ち出した最初の立場である。
普遍的指令主義
普遍的指令主義(universal prescriptivism)とは、R.M.ヘアーの立場で、道徳判断とは普遍化可能な指令であるという立場である。普遍化可能とは、ある状況においてある判断を下したなら、それと普遍的性質においてまったく同じ別の状況においても同じ判断を下したことになる、という性質である。また、ここでいう指令には、非常に強い命令からよわい推薦までさまざまなレベルの指令が含まれる。
投影主義
投影主義(projectivism)とはサイモン・ブラックバーンの立場で、善とは、われわれの態度を対象に投影することで対象の擬似的な性質となったものだと考える立場である。
規範表現主義
規範表現主義(norm expressivism)はアラン・ギボードの立場で、道徳判断は規範を受け入れているということを表現するものだと考える立場である。
実在論の立場について簡単に説明してこの基礎勉強は終える。
・自然主義
既に説明したように、ある自然の性質を善と見なしたり、自然の事実から道徳を導出する立場。
・直観主義
自然主義を批判し善は定義不可能であり、ただそれはあたかも我々が色を認識するように直観的に認識されるとするトンデモ学説。
(できたら苦労しねーよと言いたい)
・主観主義
何が善であるかを決めるのは主観的な俺の好みだとする立場。一般人や子供やにありがち。
(そんなんで決められたら社会が成立しないと言いたい)
※勉強中の分野なので誤った情報を含んでいる可能性もある(勉強不足なのは規範倫理学と対立すると聞いてきっと下らないものだろうと長らく無視していたため)
※詳論しなかった私が非実在論の立場をとるかもしれない可能性は後に割と重要になるかもしれない。例えば私はローティも好きだがローティは恐らく非実在論の立場をとる。それでもリベラルな正義を唱える事はできる。私としては結論としての正義が適切なら、実在論でも非実在論でもどっちでもいいという気がする。あとは素人的によく分からないのは社会契約論の位置づけである。契約論はまさしく人間が人間のために人間同士で法を作り出すものだが、これは非実在論に該当するのだろうか。
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