2010年04月03日

無限のリヴァイアス総評3

そして最後に来るのがイクミ独裁政権と呼ばれるイクミの政権である。その特徴はこれまで散々既述していると言えるかもしれない。次の既述の文を再び持ってくる事に意味があるだろう。

私の考えでは最善の統治のためには、正義に基づき自由を尊重するような法が必要であり、それに基づく管理やそれに基づく暴力行使のみが許容される。ブルー政権は正義に基づく意志もなく、自由を尊重するような意志もなかった。イクミはブルー政権のこの問題点を理解し克服しつつ、一定の管理や暴力は必要と認める事で、主要人物の中では最も進んだ政治思想に到達した人物だと言える。その思想はチームブルーとツヴァイの両極端な政治思想を止揚する事で生まれたものであり、イクミ自身は「馬鹿が馬鹿なりに必死で考えた方法」と謙遜しているが、比較的にはかなりの妥当性を持ったものである。艦内で知能は最も高いと思われるヘイガーがイクミを全面的に支持し最善でユートピアだと言っている事からも、イクミの決断と方法が馬鹿の方法ではない事は明らかだろう。

私の考えをより簡単に言えば、教育問題において管理教育か人権派が唱えるような自由主義的で個人主義的な教育どちらか善いのかと言えば、私の考えではその極端な二つの中間が最善なのである。だがそれは単に中間なのではなく、真ん中やや左寄りである。つまり人権や自由主義やは必要であり、それに基づく事は必要であると考える。ただそれが過剰化すると問題なのである。逆の方向から見ても、一定の管理や法や制限は必要に決まっている。その意味では学校に一切の管理や校則がなくていいなどという事にはなるはずがない。だが全てのあらゆる管理、どんな厳しい管理も許されるのかというとそれは違う。では過剰でない管理、不道徳でない管理を判断する際の基準にはどういった基準を使えばいいのか。それは正義とか権利、権利とか自由主義とかになるのである。両極端を回避するには両方をとらねばならない。極めて当然の発想である。

あらゆるものの管理や過剰な管理は、正義に基づき正義を基準に認めるべき自由は認め、禁止すべきものを禁止するような管理に改善される。ひたすらな自由放任、個人の思うがままという過剰な自由主義や個人主義は、正義に基づき正義を基準に認めるべき自由だけが認められ、正義に基づく法の下で正義に基づく制限を受けた節度ある自由主義に改善される。これが管理教育と自由教育の止揚の結果生まれる、正義に適った管理、自由な秩序、自由主義的管理教育である。

私のこの思想、統治思想ないし政治思想ないし教育思想が、作中ではイクミのそれと見事に対応している。だから私はイクミをやたらと持ち上げているのである。

無政府は絶対に許容されない。だがブルーらのようなあまりに抑圧的で野蛮を助長しさえするような、いやそれ自体として野蛮であるような全体主義的統治も許容できない。ブルーらがもたらした一定の秩序・安定を保ちつつ、しかし無政府的にも「じゆうなちつじょ」にもならないような統治の方法はないのか……イクミはそのように苦悩した末に、ヘイガーがユートピア的と評価するような統治思想に辿り着いたのである。それは作中や作外での評判の割りには、かなりの程度、単純な発想とも言える。

どれくらいに単純であるか。イクミのしている事はなんら、恐ろしく不道徳な独裁や圧政とは言い難い。もしこれが悪しき独裁なら現在の大半の国家がしている事も悪しき独裁である。(実際国家をそれ自体必要悪とか、いずれは廃絶されるべきものとする過激な政治思想も存在する)イクミの統治はイクミの要求している事は以下の言明に集約される。

「過ちを犯すな!もめるな!争うな!なじるな!傷つけるな!普通でいろ!」

無論、厳密性・明確性という観点から見れば、この命令には曖昧な点もあり、厳密には無問題ではない。ただそれとは独立に作中屈指の名言ではあるだろう。

イクミの思想の趣旨は基本的には暴力などの明瞭な犯罪、悪意でもって他人を傷つけるような言動を禁止する事にある。実際には寝坊が罰されたりもしていたが、イクミ個人の考えの中では保守的道徳は殆ど求められておらず、関心の9割は先に挙げた明瞭な犯罪行為、明瞭な暴力行為、あるいは争い全般の防止にあると考えていいだろう。

実際イクミは他の時には「今後一切の暴力行為を禁止する!」「もしそれが破られた場合、俺は実力行使に出る!」といった事を述べている。少なくともここで禁止されているのは「暴力行為」だけなのである。リヴァイアス内ではこのような明瞭な暴力行為さえもが何の躊躇いもなく行われ、蔓延しきっていた。学校と同じである。暴力ほど明瞭な悪はないにも拘わらず、その明瞭な悪が堂々と行われており、十分に取り締まられていない。この現代の法治国家で先進国である日本でも、このような事態が全国各所の学校で起きている。私の学校にも暴力は蔓延っていた。明らかな犯罪が子供の手によって日々行われていた。だがその多くは何故か殆ど取り締まられる事がなかった。犯罪の被害者が救われる事はなく、校内に警察が入ってくるような事も一度たりともなかったのである。

学校は実はしばしば無法地帯と化しており、不当に事実上の治外法権を持っている。学校的と形容されるリヴァイアスも同様であり、だからこそ学校と同じ蔓延する暴力や蔓延する争い、蔓延するナジり、蔓延する嫌がらせ、蔓延する不良…といった問題が発生する。リヴァイアスは学校的であるが故に学校と全く同じ問題を抱える。私が些か乱暴にリヴァイアスとは学校である、と言うのはこの事を意味しての事だ。

独裁とか狂気とか称されがちなイクミがやった事はこんな最低限の人としての道徳、法すらも守る事ができず、最も明瞭な種類の悪をすら堂々と犯す悪人たち、犯罪者たちに「ただ20日間だけ大人しくする事」そして「ただ暴力を振るわない事」それを要求し、そしてそれを破るなら国家や警察が犯罪者に対するのと同じように対応する…と言った、それだけの事なのである。頭の良いヘイガーがこの行動を最善と称したのも当然な程にイクミがやった事は当然に必要な事であり、むしろやっていないそれまでがおかしい、というような行為なのである。

暴力の蔓延するリヴァイアスに暴力を禁止する法を設け、その法を強制するためヴァイタル・ガーダーという兵器を利用して暴力を独占した。警察的存在としてガーディアンズという組織を設立した。イクミがした事は無政府状態・自然状態にあったリヴァイアスに、擬似的な最小国家を成立させた事に等しい。それが最小であるのは、そこで禁止されている事が「暴力」という極めて最小限最低限の事であるからだ。実際には他にも色々と制限があった(恐らくその大半はヘイガーの差し金もしくは独断かと思われる)ようだが、少なくともブルー政権の時よりは遥かに制限が緩く、その後のイクミの発言などを見ていても必要以上の締め付けなどは全然望んでいない事が明らかであった。イクミの考える法が比較的最小的である事は明らかだろう。

イクミ政権はその風紀概念が最小規模である点でブルー政権や保守的右翼的な管理、全体主義とは一線を画している。それは本質的に自由主義的であり、多くの自由を認める秩序なのである。その中で唯一認めがたいものとして暴力を置き、暴力を徹底的に取り締まっている。私がイクミ政権、イクミの統治を大変結構だと評価するのはこの事による。逆に言えばイクミ政権に批判すべき余地ができるとすれば、このような在り方をイクミ政権が逸脱した場合である。

イクミを信奉し補佐するヘイガーは結果的に(いや結果以外でも)イクミの足を引っ張っていたと感じる。あくまで善意や正義感に基づき、様々な躊躇いを秘めながら行為していたイクミと違い、ヘイガーにはやはり一定の問題ある思考や冷酷で残酷な思考、功利主義的に過ぎる思考、ファシスト的な思考が内在していた。密かに独断でイクミ政権にこのような自分の考えに基づく政策を付加した事で、結果的にヘイガーは色々な問題を生み出した。イクミ政権を道徳的に不純なものにしてしまったと言ってもいい。

例えば暴力の禁止に比べると、イクミ政権下で、ヘイガーの提案で実行された能力別のクラス分けの是非は自明ではない。私はここで答えを提示する気はない。主人公らはこれが自明的に悪いと決めつけているが私は一定の合理性もあると思う。だがこれが本当にイクミなどが意図するように、犯罪防止に役立つかという点で、判断しにくい所がある。加えてヘイガーの恣意的な分類のせいでこの政策は完全に不純で腐ったものとなってしまった。単なる住み分けならまだ合理性があったものを、まず能力に基づかない不適切な分類をヘイガーが恣意的に行った。この時点でもうアウト。本来の効果は見込めない。さらに加えてヘイガーが独断でEクラスの電気を落とすという、残酷極まりない事をイクミに秘密で行った。これによりこのクラス分けには言い訳のできない不道徳性・非人道性さえ付加されてしまった。イクミは後でこの事を知って、すぐに電気をつけさせているので、こんな事を望んでいないのは明らかである。だがイクミを信奉しイクミ政権をユートピアとするヘイガーはこれを結果的に妨害し、イクミのユートピアを汚してしまっているのである。いわば人道的独裁、道徳的独裁とでも言うべきイクミ政権を単なる不道徳な独裁に堕落されてしまうような思考をヘイガーは混ぜ込んでしまっている。

ヘイガーについて言えば、ヘイガーは論理的で合理的である事がその特徴とされているが、どう見ても彼はそれに留まっていない。そもそも論理的である事自体は中立的な特性であって、何らかの政治思想や価値判断を必然的に導出するとは言えない。価値判断の際には絶対に何らかの価値判断のための思想、倫理思想が必要になり、それが関与してくる。ヘイガーはただ論理的なのではなく、功利主義的で全体主義的であると形容せねばならないだろう。より簡単に言えば「多数のためなら全体のためなら、如何なる犠牲も厭わない」とか「目的のためなら手段は汚くていい」とかそのような思考、これが価値判断の際にヘイガーの中では働いているように思う。彼は単に論理的なのではないのである。

実際の学校は何故かしばしば無政府的である。イジメという名の校内暴力が全国的に何年間も蔓延し続けている事からもそれは明らかである。そしてリヴァイアスとは極めて学校的な空間なのであった。そしてそれは同時にリヴァイアスは無政府的である事を意味する。この無政府状態や蔓延する暴力を解決するためには、何らかの政治的な対策、何らかの統治行為が必要になる。リヴァイアスでは様々な対策・統治行為が実験的に行われた。擬似的な政権と呼べるものが作中では転々とした。イクミらの苦悩はイジメという校内暴力がいつまでたっても学校からなくならない事についての苦悩と考えても的外れではない。リヴァイアス内の泥沼状態、悪夢のような有り様は、そのまま学校の泥沼状態、学校の悲惨な有り様である。イクミは未だに暴力を振るう人間に制裁を加えた際、謝る相手に「そんな事を言ってもお前らは信用できないんだっ!すぐ裏切るんだお前らは!なんでだ!お前らは!」と殴る事をやめない。ここには悪人はどこまで行っても悪人であり、いくらその場で脅してやめさせても内面において悪人の全員が改心する事などはありえないという諦念がある。どれだけこれは悪いと言っても、常にどこかで暴力を振るうような下衆が存在するという現実を見据えた諦念・絶望、そして怒りがここには見える。本作で描かれる全ては現実にあるものである。影の薄い主人公はヒロインに向かって「これは現実なんだ!」と繰り返し言い聞かせた。現実を生きる我々は同じようにこの悪夢のような現実を受け止めなければいけないし、秩序を保つため苦悩した登場人物達のように、この現実をより善く改善し、より善い法、より善い政治、より善い秩序のために悩み努力していかなければならない。


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posted by Moral Minority at 02:57| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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